安倍談話を読んでみた

 

お盆休みもなくダラダラと仕事していたので、ブログの更新も滞ってしまいました。なにを今さらな感があるのですが、8月14日に発表された安倍談話なるものを記録しておきます。

 

さすが産経が(皮肉)安倍首相戦後70年談話の全文を載せてくれています。

 

 

ブログ記事にするにあたって、全文を何度となく読み返しました。愚考しながら私の印象を記したいと思います。

 

 (引用ここから)

  百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 (引用ここまで)

 まずこの前段では、100年以上前は欧米諸国も植民地政策してましたよね、と『アンタらもやってたやん』そもそも何で私たちだけ責められなきゃいけないんだ?というエクスキューズ的な臭いが漂ってきます。しかも日露戦争満州朝鮮半島などの領土権益をめぐっての戦争だったわけです。その後勝ち取った領土にニッポンが居座ることについて言及もせず、アジアの人々を勇気づけましたとは変な話です。

 (引用ここから)

当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

 そして七十年前。日本は、敗戦しました。

 (引用ここまで)

 

このへん実に端折ってますね。
他国の領土を侵略し傀儡国家を樹立したこと、そして韓国を植民地支配してきたこと。それらに具体的に触れることなく「針路を誤り」と言う言葉ですっ飛ばし片付けています。こんなにダラダラと長い文章を続けるならそれくらいの余裕がある筈です。

 (引用ここから)

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

(引用ここまで) 

これですね。


【こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。】

 

「歴代内閣の立場は」ときて、ここで読点をうっています。

< 読点とは>

文の意味の切れ目を示したり、文を読みやすくしたりするために、文中に施す記号。普通は「、」を使う。点。

 

上記のgoo辞書によりますと(http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/156466/m0u/

 

読点とは、文の意味の切れ間に使うようですから「歴代内閣の立場は」でいったん文の意味を切りたいのでしょう。しかも「今後も」の後にも読点をうっています。
つまり、歴代内閣の立場は今後もゆるぎないものですが、私の安倍内閣は揺るぎないかどうかは、さあ知りません。
と、いったあたりでしょうか。

(引用ここから)

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

(引用ここまで)

 

で、謝罪はもう充分だろ、と言いたいようです。
それは、謝罪した後に侵略はなかっただの、従軍慰安婦は強制では無かっただの、という妄言を政治家などが繰り返しちゃぶ台返しをしてきたなかで何度も謝罪を要求されてきたわけです。自業自得としか言えないのですが。そんなに謝罪が嫌なら言わなきゃいいのに。

 

そしてキーワードとしての「侵略」も一度だけです。

(引用ここから)

 

 事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 

(引用ここまで)

 

一般的な語句として「侵略」という言葉を用いているけれど、わが国が侵略したとは具体的に文言を入れていません。

 

 全体を通して感じるのは「私たち」とは言う。報道でもありましたが「私」とは言っていない点です。
「私たち」と、全文の中で13回も使っています。
村山談話が最後に「私の誓いの言葉といたします」と結んでいますが、この安倍談話は、「私は」「首相として私は」などの言い回しは一切使っていません。安倍首相としてどうこう、と言わないのならば安倍談話ではなくて【官僚談話】として発表すればどうだ、と思いますが。どうせ官僚の作文なんでしょうから。
でも、そんなものなら発表する必要もないか。

しかし、これで支持率が少し回復するなんて何をかいわんや。

 

追記:この談話を最高の出来だという連中がいる事もまた事実です。
自分のそのタカ派的信条の意思表示もせず、安倍首相は何をしたかったのでしょうか。
私が愚考するに村山談話の上書きをしたかった、というのが本音ではないかと思うのです。つまり「安倍談話」として歴史上に名前を残したかった、と。


そんなことをせずとも、二度も首相の座に就いた、第二次大戦後最悪の首相として永遠に名を残すのに。