好戦的にしないために徴兵制だ(三浦 瑠麗)というとんでもない倒錯の行きつく先は

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集団的自衛権の行使容認は、戦後安全保障のコンセンサスから一歩踏み出した転機であった。リベラル陣営は日本を「戦争ができる国」にしようとしているとして安倍政権を非難する。反対論の多くは、国民の意思とは別に法律家の解釈を守ることで政府の手を縛り、結果的に平和を達成するという発想に基づいている。だが、実際の軍事介入の判断は民主主義のプロセスを通じて行われるのだから、民主主義を否定する形での平和論は脆弱なばかりか民主主義を弱くする危険をも秘めている。そろそろ日本にも民主主義が平和に資する判断を導くための議論が必要なのではないだろうか。

(中略)

 これまで、徴兵制といえば、日本でも超保守派の専売特許のように考えられてきた。青年に共同体への奉仕として軍務を呼びかけ、国民教育の効果を狙った徴兵論も垣間見られる。だが、社会で派兵を決める主要な意思決定集団は青年よりもむしろ老壮であり、教育階層である。老壮青を問わず、富める者も貧しい者も、また男女の別なく徴兵制を施行してコスト認識を変えさせることが、平和のための徴兵制である。徴兵制は兵舎での国民教育や軍人精神共有の場ではなく、戦時には無作為に動員されるものとしての現実味がなければならない。結果として、それはナショナリズムを煽るものではなく抑制するものとなるはずだ。自らの命や家族の命を懸けてまで倒すべき悪というのは、世の中にそう多くはない。我々はその事実に改めて目を向けるようになり、責任を伴う平和を手にするだろう。

またなんともな御仁が現れたもんです。こちらをジトッと見つめる、この綺麗げぇ(そうかな)なお姉さまが、徴兵制は平和のためなんじゃ!と言っております。
とてもじゃないが、全てを引用する気にはならないので冒頭の一文と結論の部分を引用しました。
全文にある、下記に引用する部分がとても引っかかる。

 

戦争に行くことを観念しえない国民が兵士の派遣を判断している。戦争のコストは国民には実感されず、結果として安易な戦争が繰り返されてしまうというのが実情なのである。

 

は?

 

『戦争に行くことを観念しえない国民』とはいったい誰の事ですかね?


戦争に行くことを観念しえない国民とは、およそ権力者でしょうし。
政治家・高級官僚であると思いますが。
権力者は決して前線にはいかず、一般国民が前線に送られて、それこそ血を流す訳です。

 

戦争に行くことを恐れるからこそ、集団的自衛権の行使に、憲法改悪にも反対するんだと思いますが。
ところがこの東大出の言う、【戦争のコスト=血のコスト】を実感していない国民が安易な戦争を繰り返す、と。とんでもなく倒錯したことをぬかします。

 

 

安倍晋三みたいなタカ派政権が徴兵制を実施した結果が、平和的な国家になるとは、こらまた珍妙な。すでに好戦的だからこそ徴兵制を言うのだろうから、この延々と続く矛盾というか、ニワトリが先か卵が先かつーか。てめえのシッポを追いかける犬みたいな。

 

有名な東大話法の分類の中では、このお姉さまの話法はこういった辺りですか。

 

●自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。

●わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。

 

この徴兵制が平和のためのものだから、老若男女すべてが平等にそういった「血のコスト」を負担することで好戦的にはならないのだ、とノタマウ。
まるで、消費税が全ての国民に広く公平にかかる税制だ!といってるようで、考え方が同じようなベクトルみたいです。
本当にキショク悪いのが現れたもの。
右派が送り込むポスト櫻井よしこかよ。

追記:

第二次大戦におけるニッポンは当然徴兵制だったのですが。
それはようするに、『戦争に行くことを観念していない国民』が安易に引き起こしたものだ、と言ってる訳だ、このネーちゃんは。

お前が率先して徴兵されて戦争に行けよ。ひとりで。