「政治利用されたくない」という主語は「サヨクに」でしょ

いささか手垢が付いた話題だけど、以下の記事からです。

 

「保育園落ちたの私だ」 国会前で抗議行動:朝日新聞デジタル

 

そして、まとめサイトにはこんなものが。

#保育園落ちたけど政治利用されるのはごめんだ - Togetterまとめ

「#保育園落ちたけど政治利用されるのはごめんだ」というタグの誕生
待機児童問題に、反原発・反安保・反政権など余計な物をセットにして騒ぎ、本当に困っている人達の足を引っ張るのをやめて欲しいという意。

 

深刻な待機児童問題を何とかして欲しい、という切実な子育て世代の気持ちは勿論十分理解するし、そしてこの問題で国会前でスタンディングした人たちにとっては「反原発戦争法案反対」がついてくることがウザイというのも気持ちとしては判りますけどね。ウチらの問題には関係ないやん、と。


誤解を恐れず敢えて言うけれど「反原発・反安保など余計な物」などという言い草には、なに言ってんだかと思う。原発の危険性や、アメリカのケツにくっ付いて行って戦争が起こるかもしれない危険な法案は、それはもっと多く各層の国民に掛る重大な問題だろう。それは論を待たないと思うけれど。それを、このまとめで見る限り「余計な物」と断じるわけです。
保育園の待機児童問題の該当者にとって切実な問題だろうけど、フクイチ原発事故の避難地域に指定されて未だ帰宅できない人や自主避難している人にとって、原発問題が「余計な物」じゃないことは明らか。
それはお互い様ですね。

 

 

そもそも『政治利用されたくない』という言い方が謎。
不遜だと言ってもいい。保育園の不足問題は政治が絡んでいる問題なのに政治利用されたくないという、この自家撞着は如何ともしがたい。政治とは国民生活に直結しています。例えば消費税増税されればとたんに家計に響きますね?或いは、ポートフォリオを変更し、GPIFが株式投資比率を25%に上げて政権浮揚に株高を演出するけども、もし仮に損失が出れば年金支給額の減額もやむを得ないなどと、厚かましくもぬかす政権与党の失政も生活を直撃する訳です。

 

国会前でプラカードを持って立つ、ということはその行動を起こす人がまず何より政治問題だと認識しているからに他ならないと思いますがね。政治利用しないで、というならわざわざ国会の前でスタンディングする必要はありませんね。ようするに政権批判するな、というフィルターがかかっている、というしかないですね。

 

例えば、国会前のこのスタンディングに自民党の政治家が現れて(自民党の政治家がそれをしなかったのが不思議だ)ですね。
「皆さんの切実で真剣な!このお声を必ず!ワタクシがアベ総理に届けます!そして、この問題の早急な解決策を国会の論議の中で見つけだすことが私に課せられた政治課題だと…!」云々かんぬんとトラメガを持って叫んだとしましょうか。仮定の話に付き合ってられるかい、という批判が聞こえてきそうだけども。でも例えばですね、そんな風に言われ日にゃあんた。それは政権与党側の「政治利用」ではないのでしょうかね?つか、政治利用だろ(キッパリ)。

 

もし、それを容認するならば、ダブスタって言うんでしょ、それは。
「とたんに引くなあ」だとか「胡散臭いな」とか、「思想に飲み込まれるのはいやだ」などという意見が喧しいけれども、要するにそれは政権批判するな、というある種のその筋の同調圧力です。